初めて気球が飛んだ日と同じ夜明け前、私より余程張り切っている南さんにカメラまで持たされて集合場所に赴く。
言われた時間より遅れている気がする。案の定、既に千空も龍水も揃って遅刻者を待ち構えていた。
「うわぁ、皆さんお早い到着で……」
「遅えのはテメーだろうが。あと五分遅けりゃ叩き起こしに行くとこだったわ」
「美女の支度を覗くのは無粋だぞ千空」
真っ当な苦情と、どう反応したら良いのか分からない言葉が飛んできて一瞬めまいがした。
「いや、遅刻は本当にごめん……置いてかれたかと」
「あ?俺ら二人で乗ってどうすんだ」
千空の言うとおりだ。私が龍水とあんな話をしなければ、朝早くから二人を呼び出すなんてこともなかった。
「千空、名前、早く乗れ。夜明けは待ってはくれないぜ?」
促されるまま気球に乗り込む時、ふと千空が小声で尋ねてきた。
「早く寝ろつったよな。まさかテメー徹夜明けか?」
「それはない、少しは休んだよ。……三時間くらい」
「長居はしねえぞ」
しっかりと私に念を押して、千空は龍水と共に離陸の準備に取りかかり始めた。
「それはいつ使うつもりだ?」
縁に置いたカメラを龍水が指さした。ありきたりだが、これから見る日の出はまさにシャッターチャンスと言える。私が地形探査のために航空写真を撮りに来たと思ってる人間はいないだろう。
「さあ……なんか持たされて……南さんに」
「記者見習いの一貫てか?」
「記者じゃないから」
普段の私は南さんの手伝いをしている。司たちといた時から何かと私の世話を焼きたがる彼女は、気球で必ず一枚写真を撮ってくるようにと私にカメラを託したのだった。
「撮る時言えよ。一瞬って訳にはいかねえからな」
「ん、まぁ好きにやる」
「撮りたければ海でも山でも見せてやろう」
「オッケーキャプテン」
適当に流しつつ、離れていく地面を眺めてみる。揺れるかと警戒していたが、ただひたすら上昇していく感覚だ。
気球から降りてきたクロムやコハクが目を輝かせて喜んでいたのを思い出す。ああいう反応が返ってくるのなら、乗せる甲斐もあるだろう。感情を体で表現するのは難しい。だからと言ってゲンのように言葉がスラスラと出てくることもない。
千空も私も、珍しく龍水も特に喋るでもなくただ頭上で燃え盛る火の音だけが響いていた。
「あ、」
と、思わず声が出た。
昇る朝日の光が眩しい。目を細めながらも、脳裏に焼き付けなければならないという義務感のような焦燥感のようなものに駆られる。
「見てるか名前。今、世界は丸ごと俺たちのものだ!」
「龍水テメーまたやんのかそれ」
眼下には木々や雲がどこまでも広がっている。日本なんて地図上の大陸に比べればちっぽけな島だと思っていたけど、私たちは更にちっぽけで、手が届く範囲だってたかが知れている。
それでも人類は何百万年もかけて地平線や水平線の先、そのうえ地球の外にまで手を伸ばそうとしてきた。
空に昇ると、らしくないことまで考えてしまう。そうしているうちに完全に夜が明けてしまった。日の出を写すチャンスは完全に逃している。でも、惜しくはない。
どうやら気球は少し東へと向かうらしく、千空と龍水が後ろでそう話しているのがかろうじて聞こえた。
もしやと思い振り向くと、私の立っているちょうど反対側で二人は話し込んでいる。その光景を見た瞬間に体は動いていた。
▽
「名前ちゃんおっつ〜〜どうだった?記念すべき初フライトは」
「……寒かった」
「そんだけ!?いやいつも通りの塩対応だけども流石にズコーッてなるとこよジーマーで」
飛び立った気球を徒歩で追いかけてきたらしい。早朝から元気すぎる人間が次々と駆け寄ってきて、あっという間に囲まれてしまった。
初飛行の感想なら、気球をここまで飛ばした千空と龍水にまずは言うべきなのだろう。
「ム、顔色が少し悪いな。怖かったか?」
「ううん。違う、これは……いつもこんなだし」
次は自分がこの気球に乗るのだと席を争うような声がする。私は休み休み歩いて戻れば良い。戻ったらきっと南さんが待っていて、すぐ写真を現像することになるはずだ。
「えっと、朝早くから時間とらせてごめん」
「探索は今だってチマチマ続けてんだ。テメーなんざついでだついで」
「そう。でも、ついでにしては、まぁ良いもの見せてもらったかな。…………なんなの二人して」
龍水は先日もこんな顔をしていたが、今度は千空まで目を丸くしている。そんなに私が感謝の意を述べるのが珍しいか。珍しいかもしれない。
「じゃあね」
珍しすぎて明日は雨が降るとか、科学者から非科学的な言葉が出ないうちに踵を返す。
後から追いかけてきた銀狼が「僕分かっちゃったよぅ、あれって素直にお礼が言えない名前ちゃんの精一杯の気持ちなんだよね?」などと無粋なことを言ってくるのでカメラを運ばせることにした。
「ふーん、なかなか良く撮れたんじゃない?初めてにしては!」
南さんに及第点をもらった写真。そこには私を空に連れていった千空と龍水の後ろ姿と、二人が見据える先の景色が写っている。カメラを渡された時は人を撮るなんて想像もしていなかったのに、何故かこうなっていた。
「前から思ってたんだけど、千空たちって合理的に動こうとするわりにはこういうことするよね」
千空はついでだとかなんとか言っていたが、どうも親切にされ過ぎているような。お金もなければ力もない。そんな私の言葉をいちいち真に受ける必要なんてあるのだろうか。
「良いんじゃない?せっかくなんだしありがたくもらっとけば。そういうのが好きなんでしょ、なんだかんだで」
「そういうのって……慈善事業が?」
「ま、間違ってはいないと思います。それも」
科学の恩恵はどんな人にも平等に与えられるべきだと、千空たちはまさにその精神を体現しているのだとルリは言う。
別の目的があったとはいえ、自分の病を治す薬を作り村を救ってくれたこと、敵だったほむらに綿飴を分け与えたこともあったのだと彼女は穏やかに笑っている。ルリに言われてしまったら、もうそういう性質の人々が集まっているから仕方ないと納得するしかなかった。
「で、この写真の題名は?」
「無題」
「テーマとかなんかあるでしょ!?」
これは作品でもなんでもない。しかし撮影者がどういう意図で撮ったのかが重要だとそれっぽく諭されてしまう。
生きてて苦手なことの方が多いけど、こういうのは殊更に苦手だ。
南さんとルリが出て行ったあと、銀板の裏に文字を刻んだ。誰かが見ることもないだろう。
写っている千空と龍水に限った話でもなくて、ここにいる大体の人間の特徴でもある。
「お節介」
空けてもらった場所に写真を貼り付けて、先に出て行った二人の後を追った。まだ長い一日は終わらない。
2021.5.4
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